友達の日記に触発されて.
「ねぇ,ネガティブ全開の鬱のブログみたいなのあるでそ?」
「・・・」
「あれって,なんであるんだろうね?」
「・・・」
「世の中とか家庭が悪いとか,自分が呪われてるとか,苦しいとか,それでなくてもどことなく邪悪な空気がゆんゆんしてくるような」
「・・・」
「あれってなんで書いて公開するんだろうね?」
インターネットという世の中を見回すと,鬱病とか自閉症とか,を冠にしたブログのナンと多いことか.多いだけでなく意外と人気があったりコメントいっぱいついてたりして,下手したらワタシのブログよりもだいぶ人気があったりして.
で,意外と引き込まれて読み込んでしまったりするんだけど,なんとも言えない読後感に苛まれてオモーイ気分になってしまったりします.
そこまでネガティブな自分をさらけ出すことが是なのか?って思いながら今日過ごしました.
ネガティブな自分を思わずさらけ出すときって,体調の悪いときの自分自身にもあり得ることなのであんまり他人のこと言えない.そういうときの自分の気分と言ったら,とにかく甘えたいに尽きるんだよね.弱さ暗さネガティブさも含めて,自分をありのまま受け止めてくれ!みたいな?
でも,人間社会ってなにごとも裸でぶつかればいいっていうものではなくて,最低限の礼儀として初対面では服を纏っておくとかっていうルールがあります.
だから,不特定多数に向けてありのまま100パーセント裸の精神を見せ付けて受け止めて欲しい!っていう姿勢を見ると多くの人は露悪に感じてしまうんだろうと思います.反省..
弱っているときの人間は往々にしてそういう判断力さえ無くしてしまうことがあるようで,それが恒常化してしまっている人はちょっと気の毒かもしれない.
ただ,そこが人間社会の面白いところなんだけど,いろんな受け止め方があって,ワタシや友達のように「不特定多数に向けて自分を見せるなら最低限自分を取り繕ってから差し出すマナーがあるだろ??」っていう考え方もあれば,「見ず知らずのワタシにありのままの姿を見せてくれてありがとう!」みたいな人もいるんですよね?多分.
そうすることで全ての人に対して失敗してしまうのなら,多くの人は自分を改めるのだと思う.だけど改めないということは,過去に少なからずそれによって成功体験を得ているということなのかもしれない.
自分の苦しみを泣きながら吐き出してみたら優しい人に受け入れてもらえた,っていうような.
成功体験の後には反復があるので,だから継続してしまうの?
もしも,裸の自分を受け入れて欲しいっていうパーソナリティと裸の姿を見せてほしいっていうパーソナリティが邂逅したときの火花があるとして,それに否を唱えることはワタシにはできないんだけど,ワタシは初対面の人にはにっこり笑っていて欲しいと思います.たとえ重い荷物を背負っているのだとしてもそれはまだ仕舞っておいてもいいではないか.
もっともワタシがいつか弱って裸で出歩いていたとしたら生暖かく見守るかほっぺたをひっぱたいて頂ければと思います(←これも一種の甘えなんですが(笑
Retrospect for Life - Common feat. Lauryn Hill
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そこまでネガティブな自分をさらけ出すことが是なのか?って思いながら今日過ごしました.
ネガティブな自分を思わずさらけ出すときって,体調の悪いときの自分自身にもあり得ることなのであんまり他人のこと言えない.そういうときの自分の気分と言ったら,とにかく甘えたいに尽きるんだよね.弱さ暗さネガティブさも含めて,自分をありのまま受け止めてくれ!みたいな?
でも,人間社会ってなにごとも裸でぶつかればいいっていうものではなくて,最低限の礼儀として初対面では服を纏っておくとかっていうルールがあります.
だから,不特定多数に向けてありのまま100パーセント裸の精神を見せ付けて受け止めて欲しい!っていう姿勢を見ると多くの人は露悪に感じてしまうんだろうと思います.反省..
弱っているときの人間は往々にしてそういう判断力さえ無くしてしまうことがあるようで,それが恒常化してしまっている人はちょっと気の毒かもしれない.
ただ,そこが人間社会の面白いところなんだけど,いろんな受け止め方があって,ワタシや友達のように「不特定多数に向けて自分を見せるなら最低限自分を取り繕ってから差し出すマナーがあるだろ??」っていう考え方もあれば,「見ず知らずのワタシにありのままの姿を見せてくれてありがとう!」みたいな人もいるんですよね?多分.
そうすることで全ての人に対して失敗してしまうのなら,多くの人は自分を改めるのだと思う.だけど改めないということは,過去に少なからずそれによって成功体験を得ているということなのかもしれない.
自分の苦しみを泣きながら吐き出してみたら優しい人に受け入れてもらえた,っていうような.
成功体験の後には反復があるので,だから継続してしまうの?
もしも,裸の自分を受け入れて欲しいっていうパーソナリティと裸の姿を見せてほしいっていうパーソナリティが邂逅したときの火花があるとして,それに否を唱えることはワタシにはできないんだけど,ワタシは初対面の人にはにっこり笑っていて欲しいと思います.たとえ重い荷物を背負っているのだとしてもそれはまだ仕舞っておいてもいいではないか.
もっともワタシがいつか弱って裸で出歩いていたとしたら生暖かく見守るかほっぺたをひっぱたいて頂ければと思います(←これも一種の甘えなんですが(笑
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